大島紬の買取でオススメのお店は?

大島紬の買取でオススメのお店は?

大島紬の着物や反物の買取相場や高く売れる買取店の選び方を書きました。

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大島紬の買取相場

商品名 最高値 最安値
都喜ヱ門 本場大島紬の反物 茶系の色(証紙有りで未使用) 31500円 22500円
藤絹織物謹製 本場大島紬の反物 麻の葉曲線(証紙有りで未使用) 19200円 13700円
本場大島紬 十八算 12マルキの着物 98000円 70000円
都喜ヱ門 本場大島紬 9マルキの着物 42700円 30500円
本場白大島 男性用アンサンブルの着物 42700円 30500円
本場白大島 桑原啓之介 雪輪重ねの着物(未使用) 98000円 70000円

 

大島紬の査定ポイント

汚れやシミが浮き出ていなくて、丈が長い着物は大島紬に限らず、どの着物でもプラス査定になります。

 

 

それ以外に大島紬は都喜ヱ門のブランドや有名作家が監修してるものは高く売れる傾向にあります。

 

 

次に産地が奄美大島で作られてるか奄美大島以外かで奄美大島産の大島紬のほうが査定額が倍近くなることがあります。

 

 

大島紬には染色方法が7種類あり、

 

・泥大島紬
・泥藍大島紬
・大島紬
・色泥大島紬
・白大島紬
・草木染大島紬
・藍大島紬

 

この中で泥大島紬という染色方法は、最も手間がかかり査定額が高くなります。

 

 

大島紬の査定にはマルキと絣の形状も大事になってきます。

 

 

マルキとは経糸1240本に対しての絣糸の本数の単位で1マルキは絣糸80本になります。

 

 

マルキ数が多いほど、経糸の中の絣糸の本数が多くなり、柄が細かくなるので査定が高くなります。

 

 

また絣糸の柄合わせは経糸、横糸それぞれ1本で済むTの字の絣をカタスといい、十の字絣は元絣と呼ばれ経横糸それぞれ2本づつ絣を合わせます。

 

 

元絣の方が手間がかかる分、査定が高くなります。

大島紬を売るならこのお店!

これらの査定ポイントを考慮しつつ買取店独自の査定基準に照らし合わせて大島紬の買取価格が決められます。

 

 

ただ買取相場を見ていただいてわかる通り、お店によって金額が全然違います。

 

 

できれば2~3社ほど大手の着物買取店に査定をお願いして相見積もりをとるのがオススメです。

バイセルさん

 

ザ・ゴールドさん

 

福ちゃん

 

この記事を書いたファミリーリサイクル店長の増子です。

当店では着物の出張買取を現在休止しています。
そこで10年以上、着物買取に携わった経験を元に着物を高く売る方法について解説していきます。
このページで紹介する業者がオススメな理由については下記のページに詳しく書いたのでご覧ください(^^)/

店舗名 出張買取のファミリーリサイクル
運営会社名 フリーラン株式会社
所在地 岐阜県可児市星見台1-18
電話 090-1560-6278
代表者 増子大介
設立 平成24年2月
古物商許可 第543862009700号

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大島紬をもっと知りたい

大島紬の起源はいつ?

文献によると、奄美大島での紬の製造は、神代の時代から始まったと言われています。

 

 

伝承によると、当時神格化されていた「阿麻弥姑」が、毎日珍しい絹で頭を覆っていたことから、島の女性たちが彼女に憧れ、近づきたいという願いから「珍絹や珍首」を使ったことがその起源とされています。

 

 

当時の織り方は、手作業で行う「手紬」であり、特に「浮織りの花織」が一般的でした。

 

 

紬は別名「ヒレ」と呼ばれ、大正時代末期まで使用されていました。

 

 

また、徳之島、沖永良部島、与論島でもこの紬が見つかっています。

 

 

現在、これらの紬は貴重な資料として保存されており、大切に保管されています。

 

江戸時代の大島紬

奄美大島は、温暖な亜熱帯気候が特徴で、昔から様々な貴重な資源が豊富に採取されてきました。

 

 

例えば、砂糖きびや夜光貝などが数多く収穫されていました。

 

 

特に夜光貝は美しさが認められており、高値で取引されていたのです。

 

 

古くから、奄美大島の人々は大陸と交易を行い、島の特産品と引き換えに多様な品物を手に入れ、裕福な暮らしを送っていました。

 

 

さらに、島の北部では高品質の糸芭蕉が豊富に採れ、人々の普段着の多くが芭蕉糸で作られていました。

 

 

その後、琉球王国が官僚を送り込んで島を支配し、結果的にその地域を直轄地としました。

 

 

江戸時代に入ると、奄美大島で大島紬と呼ばれる織物の源流が生まれました。

 

 

江戸時代初期には、真綿から紡いだ手織りの糸を植物染料で染め、地機で織り上げる無地や縞柄の布が作られていました。

 

 

当時は絣柄は存在しておらず、純粋な織物が主流でした。

 

 

1609年には薩摩藩によって琉球王国や奄美大島が征服され、薩摩藩の支配下に置かれたことで、特に豊かな資源を持つ奄美大島は蔵入地として管理されました。

 

 

奄美大島で生産される紬の品質の高さが評価され、琉球紬と共に江戸時代の幕府に報告され、琉球国高として扱われるようになりました。

 

 

このため、当時の奄美大島の紬は一般的に「琉球紬」と呼ばれ、その詳細な記録は現在まで残されていません。

 

 

これにより、奄美大島は厳しい税制が課され、島の住民たちが苦しい状況に追い込まれました。

 

 

1720年には、奄美の五島に対して「絹布着用禁止令」が出されました。

 

 

この令により、「島役以下、一般島民の絹着用を禁止」となり、当時の島民がすでに大島紬を絹糸で作っていて着用していたことが分かります。

 

 

また、井原西鶴が元禄元年(1688年)に発表した「好色盛衰記」には、当時の訪問客の装いが「黒羽二重に三つ紋、紬の大島の長い羽織」であったことが記されており、特に泥染めの大島紬が高く評価されていたことがうかがえます。

 

 

奄美大島の歴史を振り返ると、「絹禁止令」という厳しい法令によって、島の住民たちは日常生活において大きな制約を受けることとなりました。

 

 

服装や食事、住居など、すべてにおいて規制が敷かれ、特に普段着に使用できる布地は「からむし(苧麻)」「芭蕉」「木綿」のみとされ、染色に使えるのは「椎」「ヤマモモ」「はぜ」といった草木の染料や泥に限定されました。

 

 

それでも、島民たちは規制下で手作業で糸を紡ぎ、地機で織り、原始的な染織技術に取り組んでおり、その中で大島紬特有の織りを維持してきたのです。

 

 

この時代には、主に織り出されたパターンは、「絣文様」「縞文様」「格子文様」などシンプルなものが多かったようです。

 

 

奄美大島で特に一般的だったのは、琉球特有の動植物をモチーフにした絵文様とは異なり、小さな点の点絣文様が多く見られた点が特徴的でした。

 

明治時代の大島紬

1873年、奄美大島はついに薩摩藩の支配から解放され、大島紬の生産が本格化しました。

 

 

その後、1877年の「西南の役」終結後、大島紬は鹿児島県や大阪などの市場に出荷され、島民による商品取引が始まりました。

 

 

そして1883年、大島紬の機織りに革新がもたらされました。

 

 

それは、『笠利村出身の仲金久や、赤木名の出身で永江伊栄温(当時40歳)氏』が、従来の「地機」を効率の良い長機(現在の高機)に改良したことでした。

 

 

従来の地機は女性が重労働となる座り作業で、全身の力が必要でした。

 

 

慣れないと糸が切れたり、折り目が揃わなかったりと技術も向上せず、生産量も伸びず需要に追いつかなかったのです。

 

 

永江氏は名瀬に工場を設立し、高機を導入して大島紬の生産体制を整えました。

 

 

また、この時期には、綿薩摩の第一人者である武者小路実篤氏の銘を受け継いだ氏のお孫さんである永江明夫氏も活躍していました。

 

 

同時に、従来の幾何学的な柄から花鳥の曲線文様を織り出す技法も考案されました。

 

 

登山伊次郎氏は、花鳥の絵の上に糊付けした絹糸を使い、手括りで絣を作り、染色して花鳥の絵文様を織り出す技法を開発しました。

 

 

この時期には、「笠利赤木名地方の庸実柄」や「龍郷地方の龍郷柄」などが盛んに生産されました。

 

 

明治16年ごろ、大島紬が鹿児島や大阪の呉服問屋によって真剣に商取引されるようになりました。

 

 

この大島紬は、奄美大島産の車輪梅(テーチ木)の煮汁で糸を染め、泥染めを施す伝統的な染色と織りの技術によって作られており、その品質の高さから全国的に評価されました。

 

 

需要が拡大するにつれて、手紡ぎでは生産が追いつかなくなり、紬の原料となる糸は手紡ぎから玉糸へと切り替わるようになりました。

 

 

この頃、「大島紬同業組合」が名瀬で設立されました。

 

 

需要の増加に伴い、粗悪な品物が市場に出回るようになり、大島紬の真価が問われるようになりました。

 

 

大阪で紬の販路拡大や品質向上に努めていた松元弥一郎氏は、この状況を危惧し、同業組合を設立するために尽力しました。

 

 

最初に奄美大島に戻り、紬の歴史や現状を福山島司氏に説明し、彼を組合の初代理事に任命して同業者を集め、製品の厳格な検査を行い品質向上に努めました。

 

 

しかし、組合設立当初は合格基準が非常に厳格であったため、加入者が少なく、組合の機能が活かされない状況が続きました。

 

 

しかし、福山氏や松元氏などの熱心な働きかけにより、徐々に加入者が増え、大島紬は本来の品質を維持できるようになりました。

 

絣作りの締機

高機への改良により地機から進化した大島紬の製造工程において、重要な部分である絣作りは以前の手括りの方式を維持していました。

 

 

しかし手括りでは効率が悪く、緻密な絣出しに困難が生じていました。

 

 

そこで明治時代の34年ごろ、当時の先駆者である重井小坊氏が織締めを用いた絣作りの研究を開始しましたが、残念なことに明治40年に36歳で早逝してしまい、その成果は実用化されることはありませんでした。

 

 

その時、重井小坊氏の工房に出入りしていた人物がいました。

 

 

その人物こそが、前述の「永江伊栄温」氏でした。

 

 

永江氏は明治40年に、「普通締」と呼ばれる絣締め加工法を完成させ、明治42年ごろにその技術を一般に公開しました。

 

 

この技術が現在の「絣作りの締機」であり、これにより緻密な絣模様のついた紬が生産されるようになり、大島紬の価値は一層高まっていったのです。

 

大島紬の柄の変化

明治時代における大島紬のデザインは、「縞、格子、無地」などが一般的で、細かい柄や幾何学的な文様が主流でした。

 

 

特に泥染め技法によって制作された大島紬は、緻密な模様が特徴でした。

 

 

しかし、大正時代から昭和初期にかけて、新たな潮流「大正モダニズム」の影響を受けることで、大島紬のデザインにも変化が現れました。

 

 

これにより、従来の泥染めに加えて色使いも多様化し色大島が増え、柄も大胆で大きな花鳥風月などが流行しました。

 

 

当時の図案は一部が現存しており、日本の伝統的な小柄な着物柄とは異なり、非常に大柄で派手な模様が特徴でした。

 

 

これらの図案は、高度な手作業技術によって精巧に作り込まれており、その細部に至るまでの緻密さには驚かされます。

 

戦後の大島紬

第二次世界大戦が終結し、奄美大島全域は昭和21年2月から昭和28年12月25日までアメリカに占領されました。

 

 

この占領期間中、奄美大島で紬の生産者たちは施設や販路を失いました。

 

 

その中には、鹿児島に移住して「大島紬」の生産を始める人々もいました。

 

 

この時期、奄美大島で使われてきた日本の国旗をモチーフにした「旗印」が鹿児島で生産される「大島紬」の商標として使われるようになりました。

 

 

一方、奄美大島に残った紬の生産者たちは、伝統を守りながら紬の復興に取り組んでいましたが、占領下では原材料の調達が難しくなりました。

 

 

昭和25年には生産量が681反にまで減少し、生産がストップする危機に直面しました。

 

 

しかし、生産者たちの熱意により、米軍政府を動かして「ガリオア資金」を受け取り、本土から原材料を調達することができました。

 

 

その結果、翌26年には生産量が2万3千反まで回復しました。

 

 

この出来事を機に、奄美大島では「地球印」を商標として採用することになりました。

 

 

こうした歴史を経て、「奄美大島紬協同組合」は昨年、設立100周年を迎えました。

 

 

奄美大島紬が現在まで品質を維持し続けられているのは、先人たちの努力の賜物です。

 

 

明日への希望を胸に、奄美大島紬は今後も前進し続けるでしょう。

 

大島紬の制作は全部で9工程

1.図案・織物設計
本場の大島紬では、製造工程は半年から一年以上の日数がかかるほど非常に手間がかかり、図案制作から始まります。

 

 

まず、織物の種類や糸の密度に合わせて図案を描きます。

 

 

この作業には方眼紙を使用し、細かなデザインを線で表現していきます。

 

 

製作が進むにつれて、各工程で熟練の技術と経験が求められます。

 

 

2.糊張り(のりばり)
織機にかける準備工程として、締機(しめばた)を使用して絣(かすり)を括っていく作業があります。

 

 

この段階では、縦糸(たていと)や横糸(よこいと)を必要な数だけ用意して、海草糊を使って糊付けを行います。

 

 

奄美大島で使用される海草糊はイギス・フノリで、虫がつきにくく、扱いやすい特性があります。

 

 

3.絣締め加工(かすりしめかこう)
締織(しめばた)を使って、図案に合わせて絹糸を締め上げる工程です。

 

 

この作業は非常に力仕事なので、古くから「男性の仕事」とされてきました。

 

 

大島紬では、永江伊栄温と永江当八によって開発された締機を使用し、定確に絣(かすり)を締めて織り上げます。

 

 

4.テーチ木染め
テーチは車輪梅とも呼ばれ、その幹と根を煎じた汁を染料として使います。

 

 

この染色工程では、糸を14時間以上も紫釜に浸して染め、染色を繰り返すことで、独特の赤褐色に糸を染め上げます。

 

 

5.泥染め
テーチ木染め後に続く工程で、泥染めを行います。

 

 

これは、テーチ木のタンニン酸と泥の鉄分が反応して、独特の渋い黒色調に糸を染める工程です。

 

 

この工程を数回繰り返すことで、最終的に大島紬特有の色合いが完成します。

 

 

6. 下準備作業
大島紬を機織りで織るためには、28の手順が必要です。

 

 

主な作業には、糸の整理、糸の巻き取り、糊付け、糊張り、部分的な色抜き、織り込み染色、絣柄のほどき、柄を合わせる作業などが含まれます。

 

 

7. 手織り作業
高機を使用して、一本ずつ手で織られていきます。

 

 

縦糸を緩めて、1本ずつ慎重に針で織り込む作業です。

 

 

手織りによって、模様がはっきりと浮かび上がってきます。

 

 

一反の布を織るのには1ヶ月以上かかり、複雑な柄を織るのには数ヶ月以上かかります。

 

 

8. 絣の調整
手織り作業を進める中で、約7㎝織った後、縦糸を緩めて、再度針で絣を合わせます。

 

 

9. 製品検査
織り上げられた反物などは、全て本場大島紬共同組合の検査場に持ち込まれます。

 

 

経験豊富なベテラン検査員が、長さや幅、色むら、絣の均一性など20個の項目を厳密にチェックします。

 

 

合格した織物には、一反ごとに品質表示証と商標が貼られ、「本場大島紬」であることが証明されます。

 

大島紬を代表する製造元や施設

店舗名 住所 電話 ホームページ
大島紬村 〒894-0411 鹿児島県大島郡龍郷町赤尾木1945 0997-62-3100 https://www.tumugi.co.jp/

 

店舗名 住所 電話 ホームページ
本場大島紬共同組合 〒891-0123 鹿児島県鹿児島市卸本町4−7 099-204-7550 https://oshimatsumugi.com/

 

店舗名 住所 電話 ホームページ
本場奄美大島紬協同組合 〒894-0068 鹿児島県奄美市名瀬浦上町48−1 0997-52-3411 https://amamioshimatsumugi.jp/

 

店舗名 住所 電話 ホームページ
壽紬工房 〒899-2101 鹿児島県いちき串木野市湊町883−1 0996-36-2865 https://www.kotobuki-tsumugikobo.com/

 

店舗名 住所 電話 ホームページ
興紬工房 〒894-0106 鹿児島県大島郡龍郷町中勝812 0997-62-2178 https://okitsumugi.com/